古典

【モチベーションが上がる】 安岡正篤 名言 六中観的生き方

今回は、ぼくが本当に大事にしている言葉で安岡正篤先生の【六中観】について紹介していきたいと思います。

仕事やプライベートで辛い事や悲しい事が起きた時に、この言葉を大事にしています。

安岡正篤(やすおか まさひろ)先生とは

1898年(明治31年)2月13日 – 1983年(昭和58年)12月13日)

陽明学者・哲学者・思想家。

安岡正篤師は昭和20年8月15日、昭和天皇によるいわゆる「玉音放送」で発せられた「終戦の詔勅」の草案作成にもかかわり、また「平成」の元号の考案者でもありました。まさに日本の歴史をつくられた大碩学でありました。
しかし安岡正篤師の本当のすごさは、その人格が慕われ、没後の今日にしてなお、安岡師の人徳、人柄を慕い、私淑する人が多いということです。
今日的な言葉でいえば、その「人間力」が、死してなお、多くの人たちに深い感化の力を持ち、影響を及ぼしているということです。

六中観的生き方とは?

死中、活有り。(しちゅう、かつあり)

苦中、楽有り。(くちゅう、らくあり)

忙中、閑有り。(ぼうちゅう、かんあり)

壺中、天有り。(こちゅう、てんあり)

意中、人有り。(いちゅう、ひとあり)

腹中、書有り。(ふくちゅう、しょあり)

早速、紹介していきます。

あくまでも個人的な解釈も含まれていますので、ご了承ください。

死中、活有り。(しちゅう、かつあり)

人間は、追い込まれることにより通常の能力以上を発揮することができる。

人生、まさに死中に活を求めるべし。

死ぬ気になって道を切り拓こうと努力をすれば、開けない道はない。

本当にせっぱが詰まった時(死ぬ寸前の中)にこそ、活がある。

「これ以上は、もう無理だ・・・絶体絶命の大ピンチだ・・・」という自体に陥っても、諦める事なく、死ぬ気の覚悟で活路を見出していけるものだ。

 

 

苦中、楽有り。(くちゅう、らくあり)

苦しみから逃れることはできない。苦しい中にも楽しみを作って心の余裕を持たなければならない。

苦しい中にこそ楽しみがあり、ただ楽だけをしている人生は本当の楽しみではない。

 

 

忙中、閑有り。(ぼうちゅう、かんあり)

忙しい中に掴んだ閑(ひま)こそ本当の閑(ひま)である。

閑で暇で困ると言っているほど堕落した人間はいない。

本当に忙しい中で、掴んだ暇こそ本当に心から大切にできる時間であり、自分の大事な時間に使うことが出来る。何もする事がない暇など生きている価値がない。

 

 

壺中、天有り。(こちゅう、てんあり)

日常の生活の中に、別の新天地(趣味や居場所)を作るという意味です。

壺中の由来は、昔にある国の商売人が仕事が終わった後に店の中にある壺に入っていく所を誰かに目撃され、一緒に入ってみたら壺の中は、新天地が広がっており非日常の世界が広がっていたという話から引用していると思います。

人間の器量は余裕から生まれるもので余裕が無ければ判断も出来なくなるという事ですね。

自分の現実世界と違う趣味や居場所・仲間を作る事で余裕が生まれる人生が作れるという事ですね。

 

 

意中、人有り。(いちゅう、ひとあり)

常に心の中に理想的な人物像や目標とする人を持つという事です。

何かを判断する瞬間に、その意中の人はどの様にしていたのか?すると思うか?考える事だろ思います。

 

 

 

腹中、書有り。(ふくちゅう、しょあり)

薄っぺらな知識ではなく、しっかり腹の底におさめた哲学や信念を持つという事です。

知識だけを身につけたとうい人間は単なる物知りにしか過ぎず、初歩的なものだから薄っぺらく行動力も無ければ信念もない。

哲学や信念があれば、いついかなる状況であろうとも指針があるから即座に迷わずに対応が出来るもの。

 

 

 

最後に

あくまでも、ぼくの個人的な解釈が多く含まれていたと思います。

ただ、安岡正篤先生の六中観的な生き方は仕事・プライベートと人生で生きる上で大変大事に出来る言葉だと思い記事にさせていただきました。

 

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